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チンチラの歴史
歴史を語るとどうしても毛皮の事ばかりなので避けてましたが、どのようにチンチラがペットとして行き渡ったか知りたく訳してみました。こんなに可愛い賢い動物、毛皮にしてしまうのは残酷な人間だと、つくづく訳して思いました。
ペットと自然の中にだけ存在して欲しいです。
色々調べてチンチラの歴史。
どうしてチンチラと言う名前になったのか。
16世紀スペインの探検家が発見しインディオ(ラテンアメリカの先住民族)の名前からチンチャ(ペルー)
スペイン人は"tchinchilla" チンチヤ(小さなチンチャ)
17世紀大量の毛糸とアメリカから持ち帰った毛皮の比較され知られた。スペインの町の名前 Djindjala ディジェニカーを変形させた。
スペイン語から Chinche チンテー カメムシ臭い動物という意味(ペットとして飼うチンチラは匂いのする動物でないですが、自然の中にいると匂う動物なのかもしれません。)
ケチュアの族の言葉から chin の意味は静か sinchi の意味は強い、努力 llaは小さい
強く小さく静かな動物
マプチェ族の言葉 Chilla 小さいキツネ
小さなカブ
場所によって呼び名が違う様にできたのだと思います。
野生のチンチラは南アメリカの アンデス山脈 ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンに生存してます。
チンチラは夜行性のげっ歯類原産は南アメリカのアンデス山脈、 何匹かのチンチラから100匹で集団で生活する。自然の中に広い範囲に沢山の種類がいた。
チンチラのテリトリーは海岸沿いから標高4000メートルアンデス山脈の西の斜面にまであった。
気候は乾燥した砂漠気候のような日中気温が上がり夜は氷点下まで下がった。
古生物学者達は先史時代の動物 Megamys メガミズがチンチラの祖先だと考える。
前に発見されたより大きいのがアルゼンチンで見つかった。土地を離れなかったのは捕食動物の環境と自然の障害から、定住されたと考える。
正確に毛皮として使用された時期は分からない。インカ文明の前とも言える。
一番初めに毛皮として使用されたのは、紀元前1100年ペルーインカ帝国のケッチャ族の時代。
16世紀スペインの探検家がアメリカ大陸を発見する。この時、色々なインディオ(ラテンアメリカの先住民族)に会う、その中の一つチンチャ族はチンチラを頭の装身具、掛け布団、食用、ペットにしていた。インディオ(ラテンアメリカの先住民族)はモルモットとチンチラを食用としていた。スペインがチンチャ族を支配してから、毛皮を着る事を禁止され税金として取り上げた。国王だけが着てよかった。素敵な小さな動物の毛はスペイン人から逃れなかった、この頃から毛皮の輸出が始まった。
18世紀 神父モリナー(1740-1829)が尾長チンチラをチリの自然の歴史(1782)に書かれた。
1829年イギリスのロンドンの動物園で初めてチンチラを受け入れる。1865年ドイツのハンブルクの動物園でもチンチラを迎える。
1893年。『ブレーム動物事典』哺乳動物のセクションの編集者ペショエル・ロッシェ氏はチンチラを観察した後、飲料水がなくても生きれる。そして動物園で何回も繁殖できたので、げっ歯類でチンチラが一番ペットに向いていると表明する。
1900年チリのサンティアゴの動植物学の研究センターのデレクターフェデリコ・アルベルト氏(1867-1928)は、政府にチンチラを保護し飼育する計画を依頼した。
努力は無駄であった、その時代の指導者はまだ野生のチンチラが沢山いたので気にしなかった。
19世紀終わり1895年初めてコキンボ原産のチンチラのカップルを飼育した。
その年にはじめての仔が生まれた。毎年3月と10月に2回。1898年疫病で13のチンチラが死んだ。
19世紀終わりから20世紀はじめ頃に100万の革がヨーロッパに輸出された。
はじめはチリだけが1895年から1910年まで、2,981,530の毛皮が最大のヨーロッパの市場に輸出された。
1910年アルゼンチン、チリ、ボリビア、ペルーはチンチラの狩り、捕えること、虐殺、罠、販売を禁止する条約を同意しサインした。チリでは次の年政府に飼育産業が力強く推進するようにとチンチラを捕まえ毛皮のために、再生産し自然の中に戻す事ができるように請願書を渡した。
1918年インディオ(ラテンアメリカの先住民族)がマタイアス・チャップマン氏(アナコンダ会社の銅の鉱山の技術士としてチリで働いていた。)が住む近くで捕まえたチンチラを白い缶に入れて、彼に売るのに持ってきた。チャップリン氏はそのチンチラを買い、その小動物の魅力に段々興味を深く持った。飼育してペットにする事を考えた。(毛皮産業のためと書かれている記事もありました。説明されたサイトは消されました。 )その後、他の人が毛皮の飼育が考えられた。
1919年から1922年にかけて23人の猟師と11のチンチラを捕まえ飼育する。
チンチラはこの年もう数が少なかったので、約3年かかった。大体が尾長チンチラその中の3匹が雌。
1920年修正案が採決された10年後チリで再度飼育が始まった。チンチラを捕まえれるように法律を修正した。一番はじめの飼育が始めれた。条件としてチリの領土のみチンチラ全部記録し、半年ごとに詳細調査して政府に届けなければならなかった。
インディオ(ラテンアメリカの先住民族)の助けをかりて4ヶ月で大体が尾長チンチラ50匹のチンチラが捕まえられた。銅の高山があった所に設置する。プナアンデス山脈の標高3500メートル温度は平均35度炭鉱の線路があったので行きやすかった。
チンチラは新しい環境になれるため1年目は何も結果がでなかった。
1921年2度目の採取の許可がおり短尾チンチラをボリビアで捕まえた。
それからチリで密輸入された。2年で若いブリーダーは250匹以上のチンチラを所有した。
1923年チャップマン氏はチンチラをアメリカに持っていけるようチリの政府に依頼した。
アナコンダ会社との契約の終わりにチリの政府から輸出のライセンスを所得した。チャップマン氏は妻と11匹のチンチラを連れてチリから出発する。
はじめ汽車でそれから日本の貨物船に乗ってカリフォルニアまで行く。
旅行中の暑さにチンチラを氷と塗らしたタオルで冷やした。
コンパートメントの中の暑さで1匹亡くなったが、チャップマン夫婦の看護のおかげで、はじめて2匹の仔が生まれた。
アメリカカリフォルニア州テハチャピ山地にはじめてのチンチラの飼育場ができるまで、12匹のチンチラはロサンゼルスの近くで飼育した。はじめに水の質に問題があった。その汚染が交配に影響あると考えた。次に半分のチンチラが盗まれた。
暑い砂漠の中自動車で運ばれ沢山のチンチラが亡くなった。
他のチンチラはテキサスから蒸気船でヨーロッパに運ばれた。着いた後少し経って死んだ。失敗に少し落ち込んだ。チャップマン氏はまたロサンゼルスに戻り飼育した。
同じ年チリでは資金が不足して、利益にならなくブリーダーはチンチラを売らざろう得なかった。
その時、政府はチンチラの輸出する販売の許可を断った。結局、はじめての販売許可の協定が結ばれた。
1923年から1930年の期間チリで多数のチンチラの飼育場のブリーダーが変わった。その当時、政府が価格が決められ新しいブリーダーに販売を制限されていた。
政府が決めた価格があまりにも低く沢山のブリーダーが辞めた。だがその価格の所為で、沢山のアマチュアのブリーダー5から10カップルで飼育はじめる。
政府の考えはチンチラの生産に早く増加させた。だが全ての人に経済振興の計画にはならなかった。10年の間経験のない複数のチンチラの飼育場が何千匹とも言えるチンチラの命が犠牲を払わせた。北に何件か飼育場が存続した。その当時新しい許可がおりチンチラを捕まえる事ができ飼育が続けられた。
1934年11匹のチンチラをペットとしてチンチラを飼育はじめたチャップマン氏が死亡した。チンチラの中で気に入っていたチンチラ(8匹目に捕らえられたのでナンバー8と付けられていた。)野生のチンチラを捕まえたので生まれた年は不明だが22年生きたと言う。チンチラをアメリカまで運べる入れ物を作ったドイツの鍛冶屋の思い出にニックネームをオールドホフと付けられていた。
1936年から1946年チリの政府が知る限りアメリカに132匹と40匹位ノルウェーに販売された。
1950年チリの北アントファガスタで4つのチンチラの飼育場だけが存続した。経験をつんでよく知られた。その全部の飼育場に2000匹以上のチンチラがいた事が考えられる。ブリーダー達は輸出が抑止しても、1件のチンチラの飼育場に1000匹のメスで生活に十分だと思っていた。
その時代沢山のヨーロッパの国がチンチラの飼育場を持つた。
イタリア、スカンディナヴィア、西ドイツ 、スイス、ロシアなど。
他の国もチンチラの飼育場を持ったと考えられる。
1929年保護の法律が法令として発布されていたが1983年から厳しく実施する。チリは国立公園を作った。1968年まで尾長チンチラは毛皮とその時代増やすのに、繁殖の遺伝子再新それで逆に野生のチンチラは又減少した。
19世紀終わりから20世紀はじめチンチラは絶滅しそうであった。
だが50年代から短尾チンチラも尾長チンチラもほほ同じ。
ワシントン条約のリストに入っている。
アルゼンチン、チリ、ボリビア、ペルーの政府が遣った事はあまり効果がなかった。小さいげっ歯類は消滅を間逃れなかった。
1970年ラウカ国立公園で発見されたとされたが確かでない。
短尾チンチラはチリ、ペルー、ボリビアの3つの境界で生延びれた可能性がある。
今だに野生のチンチラの繁殖は成功してないようだ。
森林伐採、炭鉱の輸出、激しい農業生産の土地にチンチラは戻って繁殖はできない。
長期的にほぼ短尾チンチラと尾長チンチラは消滅の兆候に思える。
他の資料から
2001年『Save the wild chinchillas』の団体が11匹の短尾チンチラを発見し捕まえ観察された。1匹が死に3匹の雄がペットのチンチラ遺伝子の強化のためそのまま残る事になる。
2012年短尾チンチラをチリアタカマ州ネバド・トレス・クルセス国立公園で写真と跡が見られている。
ビデオはチリの国有林 ネバド・トレス・クルセス国立公園
ビデオは2016年5月24日アップされてます。
夜の写真であまりはっきりしてませんが短尾チンチラ3分23に写真が5枚ぐらいあります。
気温は、夏0度から25度冬はマイナス50度から10度。
(スペイン語)
2017年4月19日ボリビアのエドゥアルド・アバロア・アンデス自然保護区域で短尾チンチラが78年ぶりに見つかった。la región (ボリビアリージョンのニュースからスペイン語)
ボリビアのエコロジーの資料 (スペイン語) ボリビアのエドゥアルド・アバロア・アンデス自然保護区域での観察をまとめて。
5000メ一トル以下の岩5メートルぐらいの所に巣を作る。夏は高い所で冬に下がって生活する。
夜、行動し雪が降った時、雨が降っている時巣から出ない。
入り口は10cmから15cmで奥行は、色々で1メートルから5メートル。1家族又は多数の家族が住む巣の大きさによって変わる。
現在(2018年)20か所に巣があると書かれている。
巣の30メートル以上は、行動しない。
食べ物は草と棘の植物(サボテン)ラマ、ビターニャの骨の外側を白くなってから食べる。肉の時は食べない。
チンチラはビスカーチヤから離れた所にテリトリーを作る。
チンチラとビスカーチヤが戦った跡が残っていたとも書かれている。
敵のキツネの糞や足跡の横に、よくチンチラの尻尾や毛が落ちている。
2020年12月7日のフランスのニュースより チリのアタカママ砂漠地域にゴールド・フィ―ルズ社が金鉱の採鉱のため、短尾チンチラ25匹いる所のチンチラを、他の場所に移すことになり2匹亡くなり、1匹が罠の網に足が引っかかり怪我をして、そのプロジェクトは一時停止しました。生物学者はチンチラは非常に敏感で他の所で必要な食べ物を探して食べていけるか心配されてます。チンチラの住処をそのままにして、他の所で金鉱の設置する方がよい事を多くの学者が訴えてます。
残念ながらアルゼンチンのチンチラのアソシエーションのサイト見ると現在でもチンチラの毛皮中心に書かれています。
ペットの飼育の陰で毛皮の飼育、実験が現在でも行われてます。
フランスのパリでは毎年元女優ブリジット・バルドーの設立した動物愛護団体が毛皮反対のチラシ街頭を通る人に渡して関心を向けてます。
どうやって毛皮ができるか、動物が酷く苦しんで、毛皮ができる事を語りバーゲンセールの時に遣られてます。
各3輪車に写真が張られて上手く遣ってます。
ビデオ撮った日は2016年1月9日でアップされたのは2016年2月16日。
ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンでもやって欲しいなと思ってしまいました。
このビデオ見た後、家にあるアノラックの帽子の縁に着いている物は何か見たところ本物で驚きました。
中国製なので、何の毛か分からなくぞっとしてしまいました。
これからちょっとしたイミテーションかと思う毛でも、注意しないとと思いました。
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